本当に生きた日

スタッフMには年下なのにとってもしっかりしている友人がたくさんいます。

そのなかのひとり望は看護師として、いま緩和ケアの病院でがんばっています。
救急病院で働いていたときから疑問に思っていた「人としての死」
そこに正面から向き合うためにこの夏から神奈川で働いています。

緩和病棟で日々向き合う死にいつも疑問をもちながら、迷いながら進む彼女
だけど、自分の進むべき道をしっかり見つけた彼女はとても輝いています。

そんな彼女の一文

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前は一人で逝くのも仕方がない、家族が看取りに間に合えばベストと思ってた。
前の病院は急性期、だから仕方がない。

でもここは看取る場所、人生最後のセレモニーをお客さんの意に沿って作る場所。
確かに『エゴ』は強いと思う。
旅立ちは一人、生きていくのも一人。 でも、それを見送ることはできる。

それをここで求められているのならば、最期に過ごすその時間、最高に近い形でお届けしたい。

私は、どんな最期を迎えるんだろう・・・自分が満足できる死であるよう、自分も生きていかなきゃなあ。

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自分の最後を思い、日々をすごす
なかなかしないし、できないことだけど
最後であわてててもどうしようもないことだから
ちょっとだけ、頭の隅にとどめておかなければ。

そんなときまたしても、不意に開いたメールにこの言葉。
ちょっと心に沁みました。




『戦う相手が自分だと分かることが、自分を生きるスタート』


望のように、私も、もう少し自分と戦ってみようと思います。


がんばれ望!! 
私もがんばるね









■今日の言霊:茨木 のり子
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世界に別れを告げる日に
ひとは一生をふりかえって
じぶんが本当に生きた日が
あまりにすくなかったことに驚くだろう
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■考えるヒント
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◇「じぶんが本当に生きた日」を私たちは、いっぱい作ることだ。そ
れは、自分が小さな決断をしていると感じながら生きることによって
なされる。自分の置かれた状況に積極的に関与することが、自分を生
きるということだからだ。


◇私たちの一生は、他人とともにあるし、自分ではどうにもならない
物理的な条件とともにある。だから、自分だけですべて何でも出来る
ということもなければ、他人や外的な条件だけで、自分が操られてい
るというものでもない。


◇自分としてどう生きていこうかと心に決めた時点から、私たちは、
自分の人生を生き始める。しかし、だからと言ってそれで自分の人生
のすべてを、自分で生きていけるわけではない。


◇ここからが、自分との戦いのスタートなのだ。小さな決断を他人に
委ねるのか、委ねないのかの決断をいつでもするという戦いのスター
トなのだ。


◇自分を生きるとは、自分との戦いをどうして生きたかということか
もしれない。自分との戦いを避けては自分を生きたと言えないのかも
しれない。戦う相手が自分だと分かることが、自分を生きるスタート
なのかもしれない。